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シンプリチオ-雑記

ラウの寝起きがmitaidesu!

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2025/11/17 (Mon) -

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三日坊主どころの話ジャネーヨ

2009/10/12 (Mon) - ●●●

お昼に起きてごはん食べておなかいっぱいになったら眠くなってお昼寝してたらもう夜だったまつけんについて。時間ない時の王道頼みで簡単に短くいきまs。
…って書いたけど結局間に合わなかったノン。


■■■ リルケの『ナルシス』 ■■■

ナルシス或いはナルキッソス!まず間違いなく世界で一番有名な美少年のひとりだねーねーーーーー。
ギリシア&ローマの神話と伝説=宇宙開闢~星になったカエサルたんの話まで、の一大集成であるオウィディウス『メタモルフォセス(変身物語)』で取り上げられる他の美少年たち、アドニス(項中に別物語挟む)、キュパリッソス、ヒュアキントス、ガニュメデスの話と比べても一番長く、そして作者のやる気を感じる出来。なのは気のせいかもしれない。けど感じる。

以下、そんなナルキッソスを題材にした、リルケの詩。訳は富士川英郎。


 ナルシス

 ナルシスが死んだ その美しい姿からは絶え間なく
 まるでヘリオトロープの香りのように濃密な
 彼の本質に近いものが立ちのぼっていった
 けれども彼の運命は 自分を見つめることだった

 彼は愛した 自分から出て また自分のなかへ帰って来たものを
 そしてもはやあからさまな風のなかにまじってはいなかった
 うっとりとして さまざまの姿の圏を閉じ
 自分を放棄しながら 彼はもはや存在することができなかった


ヘリオトロープは日本だと木立瑠璃草、香水草とも呼ばれる。うつくしす。
リルケが、ナルシスの本質に匂いを置いたのは、やはりなんというかやっぱりすごいなあああああって思ってしまうね。リルケはねぇ、ほんっとすごいよねえ、…すごいよねえとしか言えない自語のお粗末さが気にならなくて逆に満足してしまうほど、すごいよねえ……。
たとえば人間の五感に距離を当てはめてみるとしたら、視覚はプラス、触覚と味覚がゼロ、聴覚と嗅覚はマイナス、になるかなと私は思っている。音と匂いは人間の中に入り込んでくる強さを持っている。(ちょっとズレるけど、日本語に「香を聞く」という表現があったりするのはとても面白い。)そんな強制力を持つ、匂い、は、ナルシスの死が逃れがたいものであったという必然性と重なって響く。

五感と距離についてはナルシスから考えたのではないんだけど、偶然にも(?)彼は嗅覚と友達である聴覚(音)とも深い繋がりを持っていたりする。
ナルキッソスの死と水仙への転身の物語には一人、重要な登場人物がいて、それが妖精のエコー。もちろん、エコーの名であるEchoは、残響やこだまを意味するechoだよお。
そんな妖精エコーに出来ることは、話の終わりをくりかえすことと、聞いた言葉をそのまま返すこと、だけである。エンデの『はてしない物語』のウユララの原型であろう、声の妖精エコーは、ナルキッソスに恋をし拒絶されるがしかし彼を諦めきれない。彼が泉に映る自らを愛して死んでしまうその瞬間も、エコーはずっとナルキッソスを見ている。そして悲しみ、彼の嘆きを自らの声でくりかえす。ナルキッソスが「ああ、むなしい恋の相手だった少年よ!」と言えば同じだけの言葉が泉に響き、そして最期「さようなら!」、重ねてもう一つの「さようなら!」とくる。
エコー、自らの声の跳ね返り、ナルシスはいつも、「自分から出て また自分のなかへ帰って来たもの」に憑かれている。

そういえば、オウィディウスのナルキッソスの項によれば、ナルキッソスは河神ケピソスが青い水の妖精レイリオペを水の中に閉じこめて作らせた子どもである。彼が姿を映し眺め続けたのは泉で、自らの起源であるところの水だ。ナルシスはいつもいつも戻ってゆく存在だ。

でも、リルケは、そんな自己に取り囲まれ続けたナルキッソスについて「自分を放棄しながら」と歌う。
ナルキッソスは涙する。そんな、自らの死を覚悟して流した涙は、泉に落ち、映る影をぼやけさせる。オウィディウスはこんな風にナルキッソスに叫ばせる。「どこへ逃げて行くのだ?とどまってほしい!無情な少年よ、恋するこの身を捨てないでくれ!手には触れられなくても、見つめるだけでよいのだ。みじめなこの狂恋に、せめてそれだけの情けを!」
自らから溢れる、自分から出ていってしまう、水が、自分を生み出したところの水をかき乱してしまう。ナルシスは自分になれないし、もう戻れない。

実はリルケには、同じく「ナルシス」と冠せられた詩がもう一つ、あって、こちらは上の詩の3.5倍ほどの長さ。
今回の「ナルシス」がナルシスという人物を完全に対象として観察し語るのに対し、もう一つの長い方の「ナルシス」はナルシス自らが語っている形になっている。かつてナルシスに恋した女達の心境を、泉を見つめる自分について思いながら、ナルシスが初めて考える、という内容。
哲学と詩は双子とよく言われるけれども、リルケを読むと、一理ありすぎとつい思ってしまう。長い方の「ナルシス」は、人間の自己と他者についての考察をものっそい美しいかたちで読まされているようなそんな気分になる。
ただ、詩人は、発露と解放の美しさを持ってるけど、哲学者の方は捻出と搾出で泣き出しそうな、苦渋の、醜さを持っているイメージ。
どっちも好きだよ。


(でも二日目)


------だそくてきついき------

・一日目ので書きたかったけど、忘れてたやつ。
「きみのためついに愛の詩遺さざりし小さなまるい消しゴムちぢむ」
寺山修司はこんな風にうたいました。

・シェイクスピアは少年を永遠にしたが、オウィディウスは『メタモルフォセス』のラストでカエサルの話の後に自分を取り上げている。
「いまや、わたしの作品は完成した。ユピテルの怒りも、炎も、剣も、すべてを蝕む「時」の流れも、これを消滅させることはできないだろう。(中略)もし詩人の予感というものに幾らかの真実があるなら、わたしは、名声によって永遠に生きるのだ。」
ヴェルギリウスが上昇的直線なら、オウィディウスは転身、転換、循環、抜け出ることの出来ない巨大な輪だ(そしてそれを膨大な量から描き出す)。ヴェルギリウスは国の中で生き、オウィディウスは国から見放された。しかしオウィディウスが勝ちを見たのは、自分が語ったところのものにおいてだろうと思う。世界観を語るという俯瞰者の立場で。永続性を与えられ一所一時性を超えるのは常なら神話に支えられている国家だったけれど、オウィディウスにおいては加えてそれに相応しいのは、生成と消滅の変遷を見、そして見せた「私」だったのじゃないのかなあ。

・宝石によって美しく飾られた雄鹿を愛した少年キュパリッソスは様々な追想をもたらす。しかもどれも曖昧な。
糸杉にからだを変えるその寸前、緑に染まったという彼の体は、エゴン・シーレの少年の絵を思い出させる。この少年はベッドに寝ているんだけど、全体が緑に染められているんだ。クリームエメラルドとでも言えそうな、そんな色で。この絵は、シーレがまだ若いときに描いたものらしいんだけど、テレビで一度観たきりタイトルも覚えていないし、所蔵場所ももちろんわからない。いくつか当たった画集には載っておらず、記憶の中で細い体と緑の色だけが印象を強めてゆく。
もう一つキュパリッソスが私の中に引っ張り出すのは、母が昔してくれた演劇のお話で、そこに馬に恋した少年が出てくるというものだ。何分、母が学生時代に観たということで、その美しい少年が馬と一緒に死んでしまう、というお話の終わりと、今では有名になっている役者さんが出ていた、ということしかわからない。ただこの演劇に関しては、2008年の夏に、アルベール・ラモリス監督の『白い馬』のリマスター版再上映を観に行った時、元はこれだったのかもしれない、と微かに思った。1953年の作品なので、可能性はなくもない。でもなんとなく、あまり追及せず自分の中で取っておいている。母に聞いた時の印象が綺麗で、そのままでいいやと少なからず思っている。
ところで、噂に聞くだけであった主演の超美少年アラン・エムリーをやっとその時見れたわけだったが、本当に美しかったよ……。 

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