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シンプリチオ-雑記

ラウの寝起きがmitaidesu!

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なんか思い立ったので

2009/10/10 (Sat) - ●●●

今日から一ヶ月、一日一美少年フェアをひとりですることにする。


■■■ シェイクスピアの『ソネット18番』 ■■■

詩人が愛する少年である「君」を、夏に喩えて賛美した詩。ただこの詩がちょっと異色で、そして特別に素敵であるのは、詩の内容が終始その少年の美しさを謳いあげているのでなく、途中から、「君」を詩にするということが一体どんな意味を持つのか、ということに詩の中で直接触れているところ。
文学史上に美少年は山と出てくるけれど、そうした美少年たち、つまり現実にはおず、しかし数多の人々の想像力の中でいつの時代にも、なぜか居続けた彼らについて考えるとき、必ず思い出す詩。作者とモデルと作品の関係を、創作ということの意味を、作者の願いという形からストレートに見せてくれる。
対訳は三つほど読んだけど、吉田健一の抑制の効いた訳がかすぱ的一番かもしれない。飾り立てず、柔らかすぎず、静かであっさりとした雰囲気が好み。喩えを喩えのままにしてあるのもいい。原文はもっと情熱的な感じなのかな?読んでもわからない…てか古英語わかんねーお!
シェイクスピアの時代は舞台に上がるのは皆男性だった。女性の役者はいなかったらしい。だから、たとえばジュリエットのような少女役は声変わり前の少年がやっていたわけです。(この話初めて知った時はちょうこうふんした。だってロミジュリってつまり青年×少年でやってたってことだよ?中の人。やばしだろこれは。2.5次元萌えの元祖を私はここに見る。)だから、ここからは妄想だけど、シェイクスピアが愛を謳ったこの詩の「君」は、少年役者だったのかもしれないなぁなんて思ったりもするわけでした。
詩に半分反して、実際の、「君」の美しさは、きっと喪われてしまったんだろう。喪われることもシェイクスピアは当然のごとく知っていたわけで、でもだからこそ、この詩は「だけどね。」という地点にまで詠まれなきゃいけなかった。

そういえば、夏の美少年といって思い出すのはやっぱり『ヴェニスに死す』(のしかもヴィスコンティ映画の方…)だけど、ここでの美少年タッジオが表しているものは、単純に夏の輝き(海で遊ぶ姿)だけではない。この映画の主人公である老音楽家のアシェンバッハは、ホテルで目にしたタッジオの姿を忘れることが出来ず、彼を眺めるためだけに、コレラが蔓延しているヴェニスに留まり続け、結局罹患して海辺で死ぬことになる。つまりここでのタッジオは、むしろより強く、(アシェンバッハを追い詰めてゆく)死そのものを表している。
gold complexionとシェイクスピアが呼んだものの、コインの裏がこれかな…。

関係ないけど、ヨーロッパの美少年はなんだかんだいって夏のイメージがある。一瞬の輝きと喪失というのは大前提として素肌的なあれかとか思ったり。勝手に。
日本はそうでもないなぁ…なんだか春と夜のイメージがあるのは、白居易の「春夜」と葛原妙子のせいだと思うけど。
あ、ただ、日本にも、山口誓子の『黄旗』に、こんな超直球がある。
「汗ばみて少年みだりなることを」  
まったくけしからん句ですね。だいすき。

最後に、少年に限らず、夏の詩といわれたら、ハイネの『逝く夏』だね。
これは一回読むと忘れられない詩じゃなかろうかと思うのですが……!
でもこの詩が謳うのは、『18番』のような夏の輝きや永遠ではなく、夏の終わりであり、更にもう過去になっている夏の思い出です。では、この詩の中での夏は誰なのか、と言うと、詩人に愛されている「おまえ」ではなく、この詩を作ったハイネ自身です。


(一日目)
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