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| シンプリチオ-雑記ラウの寝起きがmitaidesu! [PR]× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 生き物のうちで約束をするのは人間だけである寺山修司劇場美術館展に行ってきました。
展示はこじんまりしてたけど、本や天井桟敷関係の資料、直筆原稿や映像作品とか、色々あって結構よかったよ。 絶筆の原稿コピーがあったのだけど、それが一番印象的だった。 修司の専用特製原稿用紙は、400字詰めで普通のより字幅が広い。そこに、丸くて横に伸びた字で文章が綴られている。想像してたのよりずっとかわいい字だったから、ちょっとビックリした。 絶筆は、雑誌に載せた、墓と死についてのエッセイ。 その原稿の、「~私は(病気名)で死ぬ。それは確かだ。~…」と書いてある横に、自ら訂正を入れた跡があった。その脇に加えられた言葉を付けると、「~私は(病気名)で死ぬ<だろう>。それ<だけ>は確かだ。~…」こうなる。 確かなのは死「だけ」、とわざわざ変えられている最期の原稿を前にして、寺山修司という人とその生が、改めて立ち現れてくるような気がしたよ。 彼の文章を読んでいると、生への郷愁みたいなものを凄く感じる。いつも、生を懐かしんでいたように思えてくる。 つまり、つねに、ふりかえっている。どこから。死から。 寺山修司は、「人間は決して帰れない」と言ったけれど、それはもう死者の視点なんだきっと。 あのひとはいつも夕暮れで赤く染まった、雑多な、いろいろな臭いの混じった、街で、ひとり佇んでいる。そして、暮れる前の世界について生活について人間について、書いて詠んで演じて撮っている。 だから、舞台はいつも夕暮れ色をしている。 それは死者のノスタルジーだ。 でも中也が匂わせていたような死じゃないんだよね…。不思議。 死に片足を突っ込んでいるんじゃないの。 死に浸かり過ぎて、ぎゃくに生き生きとしてしまっているような。生を憧憬しすぎた死者? 新書館から出していた、宇野亜喜良と合作のシリーズがとても少女ちっくで心惹かれた…。あと「身毒丸」の単行本の絵が、高畠華宵で…!しらなかったので…!打ち震えた!もっと見てたかった!触りたかった…。 ポスターもチケットもパンフもみんなそうなんだけど、デザインの細部への拘りとセンスが見ていて本当に楽しい。古く感じない。 天井桟敷新聞が資料としてどっさと置いてあって、パラパラ眺めてたら、 『女の子のためのホモセクシュアル映画上映会』というお知らせ記事を発見して、ひとりニンマリしてしまった…修司ー!どうして逝ってしまったのー!と一番言ってはいけないことを言ってしまいたくなる。 ついメモってしまった上映作品 以下 「ベーゲン・ラプソディ」(ジョージ・クッチャー) 「ステーメン」(コニー・ピースン) 「息子たち」(安藤紘平) 「愛の詩」(ジュネ) 面白いのが、女の子限定の上映日があるんだけど、その但し書きに「美少年と女装の方はOK」と書かれているところ。いい世界だなぁ…って思ってしまった。 あと毛皮のマリーの美少年募集、当時の審査員に、シモンと竹宮御大を発見してまたニンマリ。(単純だから ことばで宇宙を遊んだ人だなーと思います寺山修司…。おもしろい。 別のはなしあのはなし ** もう黙って、わーっ!って観るしかないんだ。 ほんとに楽しいアニメをわーっ!って観ないでどうするっていうんだろう。 私が気付くようなことはみんな気付くんだ! 何を気にするんだろう! PR COMMENTSCOMMENT FORM TRACKBACKSTRACKBACK URL | |