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シンプリチオ-雑記

ラウの寝起きがmitaidesu!

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2024/05/18 (Sat) -

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無題

2008/11/07 (Fri) - ●●●

あと、周作たんの「深い河」もちょっと前に読み終わった。
感想書く機会置いとくと、どんどん伸びるからもう書いてしまう!

じんわり来た。感動というより共感と言う方があってたかも。
自分の大学が舞台のひとつってことだけでなく(クルトゥル・ハイムはお昼寝にいいよねってことだけでなく)、大学入ってから自然と触れることの多くなっていたキリスト教についての自分の中の感情みたいなものが、ぽろぽろと作品の中でぶつかって見つかっていったので。
あの宗教に対する感情って、反感とか、あと多分(認めたくないけど)憧憬とか諸々含んでいて、ひとつの言葉では言えないんですけど。

興味深かったのは、成瀬が最後、ガンジスに入って「真似事の祈りよ」と言ったところ。
その前に、十一章で、大津が老婆を背負いながら「あなた(キリスト)の真似をしています」と言うんだよね…。相容れなかったはずの二人がでもやっぱり繋がりを絶てなかったことの一つがここに出てるなぁって思う。
成瀬が繰り返し繰り返しテレーズ・デスケイルウを自分と重ね合わせようとしたように、大津がキリストだったならと考えたように、人間は時に自分を何かになぞらえようとする。
何かの中に、置こうとする。自分を何か演じようとする。
たとえば真理とか神とか完全性とか超越とか呼ばれることの多い、「漠然とした何か」に触れて、それを見習おうとする。そこから自分を見ようとする。
宗教上の行為というのは、それの現れのひとつひとつであって、ひとつひとつに過ぎない、けれどだからといって否定されるものでもない、バリエーションのようなもの。
成瀬は宗教を持たなかったけど、祈りを真似をした。それは成瀬の宗教じゃない場合の宗教。

構造としての十三章とか、あの大きな黒目の少女の描写とか…大好きだ…。なんだろう、良い意味での、わかりやすさ。胸がすーっとする。
鳥にはどんな意味があったのかなぁってまだ考えている。


夏に行ったドイツ、フランス、スペインで、沢山の大カテドラルや教会を回ったんだけれど、そこで得たのは、ものすごい疎外感だった。建造物の巨大さや、壮麗さからの圧倒とは全く別のところで、切り離されて渡された疎外感。わからない、と心底思った。
ベラスケスの磔刑図をプラドで見て、美しいとは思ったけれど、これを描く心境はわからない。気が遠くなるくらい。

でも感動しなかったというのは嘘で、感動はした。
何にしたかっていうと、信仰心に、だった。

リヨンで、奇跡の水とマリア信仰の一大聖地があって、そこがちょうど蝋燭のお祭りの時期だった。世界中から、信者や、ホスピスに住む人々や病気の人、老人、家族連れの人が大挙してやってくる。
夕方、日が落ちると、みんなで手に持った蝋燭を灯して、教会から歩く。そして聖歌を歌う。
カテドラルの外部を上へ登れる回廊があって、そこから地上を見下ろした時、今まで建物の影に隠れてて見えなかったもの凄い人数の蝋燭を持った人たちが目に入ってきて、途端に涙が出た。本当に凄いの。眼前が全て蝋燭の火で埋まる。マリアを讃える歌がずうっと繰り返し繰り返し流れる。小さなこどもが、アヴェ・マリアを歌ってた。
私はマリアを讃える歌を知らないし、奇跡の水のおこす奇跡に感動はしないけれど、それにすがって集まる色んな、本当にいろいろな人々の姿には、何か胸にくるものがあった。そして自分でもよくわからないうちに泣いてた。

スペインのカテドラルに、実物大くらいのキリストの磔刑の像が置いてあった。よく見ると、触れる位置にあるキリストの足の指の部分だけ、色が剥げてた。沢山のひとが触って撫でたから、そこだけ色が落ちちゃったんだと思う。ちょっと離れたところに、布のすり切れた小さな椅子もあった。
カテドラルは美しいけれど、それは展示や写真を撮られるためにあるんじゃなくて、生活のためにあるんだよね。
何人の人がここで祈って、椅子に座って、何人の人がキリストの足にふれたんだろうと思った。
疎外感は無くならなかったけれど、思った。

信仰心への感動は、傍観者の感動だ、というのが思ったことだった。
でも成瀬がガンジスに浸りながら言う、「信じられるのは、それぞれの人が、それぞれの辛さを背負って、深い河で祈っているこの光景です」という台詞はそのまま、私の感じたものだった。
彼女は疎外感なんて感じていないし、もう傍観者ではなくて、河に入っている。一緒に流されている。
私が傍観者であったのは特有の宗教に対してであって、完全なる傍観者じゃないんだ、って今更頭で気付く。泣いた時の私は多分感情では気付いてたんだと思う。
私は相変わらず「玉ねぎ」はわからないし、成瀬も嫌いだけれど、成瀬の言うことはわかる。凄くわかる。

見たのは、信じられるのは、蝋燭を持って歌っていた人たちの姿で、キリストの剥げた足の指を撫でた人たちの姿で、その人たちが祈る先のものはわからないけれど、その人たちのことはなんだかわかってしまうから、私も多分、どこかには触れているのだった。
成瀬はそれを、河って言った。
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