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シンプリチオ-雑記

ラウの寝起きがmitaidesu!

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2025/03/14 (Fri) -

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カレーニンの微笑

2008/10/26 (Sun) - ●●●

カレーニンが最期を迎える章で、私はどうしてあんなに涙が出たのか、ということはちゃんと考えなくてはならない気がする。悲しい、や、切ない、といった言葉は美しく便利で、それだけで、単純な私の感情や論理は全て充足されるように思えてしまうのだけれど、でも結局それは妥協や怠惰なのだだだっだ。

「愛は自分の思考や存在とは全く離れたところで流れている」
というフレーズを、女性作家の手によるマンガで読んだことがある。これはとても印象に残った。
私は、対面式という狭い範囲を超えた愛理解に至るとこういう言葉が出てくるのかな、と考えていたんだけれど、トマーシュとテレザの愛の話を読み終わった今だと、当時の自分の、この言葉への印象はちょっと間違っているように思う。
この言葉は愛の範囲の広さや狭さ(わたしとあなた、であるとか、あのひととあのひとのあいだのわたし、であるとか、そういうこと)についての視点から捉えても、きっと意味がない。
例えば、テレザとトマーシュの恋愛はどう見てもふたりのもので、対面式の形を取っていたけれど、このフレーズに乗せて説明しても、齟齬は出ない。
「自分の思考や存在」とは、トマーシュの運命の言葉で換言すると「Es muss sein!(そうでなければならない!)」。「全く離れたところで流れている」とは、トマーシュがテレザによって、いつもその呪文es muss seinの向こう側(プラハに戻ること、外科医をやめることetc)に連れてこられることそのこと。
マンガの、「愛は自分の思考や存在とは全く離れたところで流れている」というモノローグの語り手であるキャラクターは、この言葉が記されたあと、少しだけ泣くんだけれど、それはテレザの胸の中の野兎がもしかしたら流していたかもしれない涙。
泣いた男には、まだ、その愛への実感は疑問やこころの苦しさや決意として迫ってきていて、トマーシュの場合は、気付いた時にはもう「幸せとして」だった。
愛とはなんぞや、の問いにオリジナルの言葉ではまだ回答できないけど、とりあえず、自分の思考や存在とは全く離れたところで流れているのが愛ですと借りた言葉をひっくり返して言うことはできそう。
重さを軽さにするもの。転回への、唯一の、自由な鍵。

クンデラの『存在の耐えられない軽さ』の話。
この小説の筆致が何度読んでもほんとツボなのです。大好き。そしてやっぱりサビナの考え方に共感するところは多い。でも、転回されたそれとしてでなく軽さを意識してしまったサビナの生き方は、ちょっと怖い。
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