小学生の頃に覚えた和歌漢詩現代詩は忘れなかったけど高校時代のはほとんど忘れてる。でも例外で「風と木の詩」の冒頭モノローグだけは忘れられない。
今日ひさびさに目にする機会があって、読んでたら涙出た。
あの文章のリズムは忘れがたい。覚えてる!という感動もあった…一気に風木が体を巡ってゆきました。
「風木」は冒頭と同じモノローグで締められる最後のページの絵がとても好きだ。木々が並び囲んだ道の先、背景の遠くにある学舎が暖かくて切ないの。ベタでほとんど見えないのに。ジルベールと風の向こうにある場所は始まりの場所で、物語の最後で最後で「ありし日」に戻るのです。囚われたセルジュの心なのです。
私はオーギュがとても好きなんだけど、オーギュが死んだジルをどうしたか、ということって番外編で語られたことだったのね。本編とごっちゃになってた。
私にとっては、セルジュは遠い人で理解の及ばない人なんだけど(きっとスザクもそうである)、オーギュは「私とは違う」のにわかるような気がする。ていうかわかりたいという憧れなのかもしれない。セルジュは憧れがないからわかりたいと思わないのかもしれない。
ついでにオーギュのことを肯定はせずとも理解してくれているロスマリネとジュールのことも好きだ…。セルジュとジルが影でない、光の方の住人だったなら、この二人は半分は影の世界の子どもたちなんだなー。
オーギュについて考える時いつも必然的にBANANA FISHのゴルツィネのことも考えてしまう。
昔は彼らはとても似ていると思っていたんだけど、なんだか今は違う気がする。
ゴルツィネはアッシュを抱きながら、最終的には「抱いて」欲しかった人なんじゃないかなぁと思う。ゴルツィネは本当に深いところの願望としては多分アッシュに自分を越えて欲しかったんだけど、オーギュはそうじゃない。オーギュはひたすらジルを抱くけどそしてそれで全てだけど、なんで全てかって言うと、そもそもジルの方が始めからオーギュより「上」だったからだ。むしろオーギュは抱くことでしかジルに対して自らを発揮することができない。オーギュとジルには性がどうしようもなく必要で、関係性の内の唯一といっていい要になってしまっている。だから逆にセクシュアルな感じを受けない。それが真っ当に明らかにされすぎているからだ。隠されているからこそ、ゴルツィネのアッシュへの愛やアッシュの服従と反抗は、もの凄いエロさを醸し出す。
きっと精神的に見ればアッシュは攻めで、禿げで太って歳取ったゴルツィネは受けなのです。ついでに英二相手になると、(作中のさんざの描写も押しのけてですが)やっぱりアッシュは抱かれる方になるのだと思う。最後の英二の手紙が正解。
男男におけるエロティシズムはやっぱり逆転にあるのかぬぁ~。落差と言ってもいい。英二の前で転落するアッシュも、アッシュの前で転落するゴルツィネも、なんとエロエロしいことか。何もしてないのに!何もしてないのに!
そしてBANANA FISHの最終回読んでまた泣くという。なんでそこで見上げるの…なんでそこで笑うの…アッシューーーーアッッシュウウウーーーーーーーーーーーーーーーーーー !!!!!!そして「光の庭」のシンに気付いてしまった。どうしよう。前は気付かなかった…!この子はっっっ。滾る。思い出には勝てないし、あの人にはなれない!好きが先なのかなりたいのが先なのかわかっているの。萌える。
PR