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シンプリチオ-雑記

ラウの寝起きがmitaidesu!

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2025/03/15 (Sat) -

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ずびずび

2008/11/26 (Wed) - ●●●

けっきょく講義休んだーーあーあー。ごはんだけ外で食べてあとはずっと本読んでました。頭痛はなくなったけど微熱引かぬ…あと鼻水が深刻…歩けない…。

今日は去夏以来で恩田陸の『ネバーランド』をなぜか無性に読みたくなって読み直して、その後ずっと気になっていたひちわさんの小説をゲトできたのでそれも読了。寝る前に安吾の続きも読んじゃおう…。もりもり。



『ネバーランド』は相変わらず素敵であったよ…光浩…みつひろがすきなんだから…。

少年と女、というのがポイントなのかなというのが、再読で初めて気付いた点。
まず少年と「女」というのは、連関が無くて、切り離されている。対極?というのもどこかおかしいかな。
だからといって「男」が少年の延長線上にあるとは思わないし、そこには絶対的に隔絶があると思うけども(よって、いつまでも少年のような男、というのは気味の悪いものでしかないし、そういう形容自体があり得ない)、でも性別としてはやっぱり一緒なんだ。そういう繋がり。
「少女」と少年は相容れない双子?かなぁ。違う生き物だけど。(そういえば、少年性は必ず喪われるが、少女性というものは必ずしも喪われるものではない、って誰か言ってたね…誰だっけ…作家…)

「女」というものは、少年とは永遠に交錯しない関係上にあるというか、どんな軸でも描けないところにいる。ように思える。
女が(ある一定の年齢を超えていてもなお)少年に対して持ってしまう憧憬のようなものは、多分その存在が自分と全く切り離されているから、「男」や「少女」よりもっともっと届かないところにいるからじゃないかと思う。
距離が憧れを引き留め続ける。

それから、母親、という存在がいるけれど、これは大抵初めから「女」を切り捨てられて少年の前には現れるので、普通の「女」とは別物として考えていい気がする。
『ネバーランド』が異質なのは(寛司は例外として)美国と光浩と統に、「女」の発見が、忘れられない経験としてあったこと。語られる母たち(語られる母であって実際の母じゃないんだけど。象徴の母。母親にはなれなかった「女」)が、傷痕みたいに残っていること。
赤い爪や、開け放された寝室の扉や、信仰者が自殺に使った電気剃刀は各々のイメージを引きずり出す。

松籟館は少年達にとって、彼らだけの解放の場所だったけれども、そこで(本来だったら最も語られることがないはずの?=トラウマの?)女たちについて語られる。
『ネバーランド』を読み終わって、普段なら少年たちへの印象でいっぱいいっぱいになってしまうところ、そうならないのは、自分と同じ「女」が、語られるものとして、ポコンと置いてあるからかもしれない。
少年の口から語られる女たちが、遠隔地でなく自分の隣にいるような感覚がする。

いつもだったら、本の外で感じる「入り込めない自分」が、まるっとそのまま、入り込めないまま、でも本の中にちらりと顔を覗かせている。
少年に触れて感じてしまう寂しさは、この『ネバーランド』の装置を使われた場合の方がなんとなく強まるんだ。
少年は遠い。いつまでも遠い。
光浩はいつまでも遠いので、惹かれ続けて厭くことがないのです。
そして赤い爪のお姉さんや敬子さんがいることで、この本を読み終わった後というのは、感動や爽快感とはまた違ったところで、淋しさというものがより募るのです。

あ!あと、「渡り廊下の雪」というのにものっそいノスタルジーを感じてしまったんだけど。
これが一年の差か。



ひちわさんのは良かったよー!『今宵、雲の上のキッチンで』!もへた…。
攻も受もあんまりタイプ的には好きじゃなかったんだけど…シチュの勝利…!



それから、安吾のエッセイ集をちょっと前に本棚から発見して(…orz)、ちまちま読んでる。気楽に読めていいのね…。

「デカダン文学論」で漱石批判をしてるんだけども、これだけ引っかかった。
安吾と漱石って、そもそも、自我を掴まえようとする姿勢の違いがあるから、安吾の批判がちょっとズレてるような気がするんだけどどうかな。
漱石って人間関係(三角関係)から個としての「私」(人間)が「暴かれる」んじゃないかというスタンス。でも安吾の模索する(?)、向かい合って掘り下げようとする(?)「私」には他者が姿を見せることはない。
だから安吾がいくらぐじぐじ言ってても、そもそも探求方法が違うから突っかかる部分がおかしいんじゃないのかなあと思ってしまう。
私はまず「こころ」をちゃんと読んでみよう。教科書に載ってた部分を囓ってしかおらんのよ。
(そんな状態でこんな勝手なことを書いていますよ)


で雑読寄り道ばかりであいかわらず『白痴』が飛び飛びなのだった…夏からまだ読んでるよ。まだまだ!でもドストちゃんは一気読みいつでもできるから~と思ってなんかちんたら読んでしまうのね。面白いからなんだけどね。
公爵が24歳っていうのに、ウッ!ときたんだそういえばこの前。もう最近、24歳というのが男としては絶妙な年齢に思えてならない。日本のリーマンで考えると全然なので間違った認識である。…。

鴎外が『ヰタ・セクスアリス』の中で、「人は神聖なるものを多く有しているだけ、弱点が多い。苦痛が多い。犬的な人に逢っては叶わない。」という言葉を残してるんだけど、公爵見てるとたまに思い出す。
恥ずかしがることが出来る、ということは人間にとってとても大事なことなんじゃないかなあと思うんだ。
羞恥心というものを無くした人間は、強いかもしれないが、たぶん醜い。(テレザのママもそうだったね。)
透明の極致にいる公爵が、本当に「犬的な人に逢っては叶わない」のかどうか、で、この言葉がもうちょっと吟味できそうな気がするので、結末が楽しみなのです。

『ヰタ・セクスアリス』は、小幾のきんとん話とか、結構萌えも多かった気がするんだけど、印象に残ってるのが
「この男は少しも僕を保護してはくれなんだ。」
という台詞で、なんだか、ちょっと狡くてだらしない年上攻に対して、内心呆れてぼやいちゃう早熟で賢い年下受の言葉として読んで悶えたりとかしてた変な楽しみ方だな…。


\(^o^)/ねる

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