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シンプリチオ-雑記

ラウの寝起きがmitaidesu!

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2025/05/15 (Thu) -

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私の先生と、友人が、すごい喧嘩をしました。

2010/05/23 (Sun) - ●●●

ある種の天才や、極めて特殊な経験を自己のものにしている非凡人には過去の土台の前提はいらないのかもしれない。彼らは彼らの名前のついた学を残して死ぬ。
後世の人間にとっては、彼らや彼らの名に象徴され集約されるような思想はとても魅力的だ。
でも、そういう魅力的な彼らのうちのある一人の思想だけを学問として研究し、自らのアイデンティティーとしてしまうことは、いつか必ず行き詰まるし、それはとても辛いことだって先生は言う。先生がそう言う理由は、結局、個別的な一回的な、反復不可能なある一人の人間のみからは、生来別の名前を持つ「私」をもはや立てられないからだと思う。もう誰もニーチェになることはできないし、キルケゴールになることもできない。サルトルにも太宰にも、なることはできない。彼らの思想が放つ魅力は、ひとつの完成した物語が放つものに近い。それは繰り返せない。

普通の人間、自分の経験を自分の力だけでは特化させることの出来ない人間は、過去の思想の集積やその体系的な理解の上にしか自らの独自性を発揮できない。あまりにも自分が薄いから、その薄さから一人称でもって初めて語りうるようなものを剥離させるには、それを見つけ出すのに道具が必要になる。見分ける際の立脚点が必要になる。だから学問としてのphがありえる。
学問としてphをするということは、連綿と受け継がれて来た故に巨大になった、ある意味歴史的で無記名的なそれをまず受け入れて理解して対峙するということだ。だから、私の先生は、全体の理解に及ばぬうちは、振り返りが熟さぬうちは、土台が完成せぬうちは、「ただ肯いて、黙っていろ」と言う。学問の前で一人称はまずもって無言で立たなければならない。
でもそれは永遠に屈服しろということではないし、あくまで期限付きで強いられる沈黙なんだと思う。(長いけど。)

phは方法を規定しない。だから、私は、学問的なそれがあってもいいと思うし、非学問的なそれがあってもいいと思う。お互いに相手を退けたり否定したりすることは、どちらにとってもphから外れることだ。

私と友人の最大の違いは、特別性を発掘しなくてはいけない人間と、特別性をもはや揺るぎなく獲得している人間の違いだと思う。
彼にとっては自らの特別性はむしろ疑いようのない事実であって、全ての立脚点になっているから、「あなたは自分のことを特別だと思っているが、そうではない」という先生からの非難は絶対に拒否されなければならない。
対して、私はその地点に行っていない。だから、私にはまだ先生が必要だし、先生の前では黙っていなければならない。我慢して、黙っていなければならない。
友人は、これから辛いと思う。彼は、自分を圧迫してくる無記名的な土台から離れようとしているし、最終的に保持した独自性がある以上、名前を持った一つの思想を参照することにも限界が設定される。


そしてここまで書いて、上の内容には、何のために、という視点が欠落しているということに気付いて落ち込んだんだけどでも、言表できるwhyと言表できないwhyがあると思う。というのが最近気付いたことです…。なんで私にはwhyがないのっていうひどいwhy。本当にそれを探すための方法が私が今いるところにあるのかという疑問は常に残るんですけど。
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