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シンプリチオ-雑記

ラウの寝起きがmitaidesu!

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2025/03/14 (Fri) -

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知らないということ

2011/04/19 (Tue) - ●●●

311以降原発で起こったこと・起こっていることについては、特別に糾弾されるべき特定の個人や団体がいる、ということは確かだと思う。
しかしそういうこととは別に(ヤスパースが『罪責論』の中で第二次大戦後のドイツ国民が負うべき「罪」をあえて四つの次元に分けたことを思い出す。事象の意味とその意味に対すべき「当事者」を、事象の側面ごとに捉えていった結果辿り着いた区分。「罪責」の該当者は次元を経るごとに増える。)、強く思ったことは、原発について無知の自覚すらなかった私自身の在り方もまた、ひどく罪的であるということだ。無知の自覚がないということは、無関心であるということだ。私は、問題となっている場所が自分の出身地であるという理由からでも、単に悲劇を拡大して感受してしまった感傷からでもなく、自分の無関心性に漠然とした罪責感情をもつ。
福島の東に原発があるということはもちろん知っていたし、中学校の時に理科の教師が、万が一事故が起こるようなことがあればここ(郡山)も当然ダメになるだろう、と口走ったことも鮮明に覚えている。でもそれだけだ。そして私だけでなく、1号機の爆発がわかった時点ですぐさま原発について何かを他者に通じる形で、一言でも物申せた人間が日本人の中にどれだけいただろうと思う。
社会はいくつものシステムから複雑に出来上がっていて、私たちがそのすべてを見通すということはまずない。私たちは社会の成り立ちを知らない。なぜ知らないのかといえば、知らなくても生きていけるからだ。生まれた時から私たちの生を支えている外的なあらゆるものの表層だけを、一応把握していれば、日常生活には困らない。表層の先の正体について知ることは、各々の関心の具合に任されている。そして、この任されているという自由が、私たちに責任をも同時に手渡している。
「知る権利」ということが声高に言われて久しいけれど、「知る権利」が意識的に獲得されるべきものであるのなら、「知らない責任」は、ある社会においてしかもはや生きてはいけない人間である私たちが、私たちのその難解な社会において、無意識的に既に獲得させられているものだ。社会の恩恵(というにはあまりにも敷衍され浸透されきっている環境)を受けて生きざるをえない現代では、無自覚な無知・無関心はオートマチックに罪的であらざるをえない。
目に見える特別で特定な糾弾のほかに、目に収めきれないほど巨大な糾弾がなくてはならない。範囲はきっとある島国の形とほぼ等しい。問題は、非難する側と非難される側が同じであるということ。

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