ブログでも結構しつこく書いてるけど葛原妙子(明治40年生まれの女性歌人だよ)イキマス。
■■■ 葛原妙子の『原牛』他 ■■■
・寒き日のあさなあさなにしたたれる少年の鼻血ひそかにし見る
・脛長く伸びゆく少年うつうつと伸長の疼痛を訴ふ
・傅きし唇赤き少年を打ちしことありやレオナルド・ダ・ヴィンチ
少年の歌を取ってきたけれども、それに限らずこの人の歌が好きだ。
葛原妙子の歌には、しんと張りつめた空気の中に、透明のうちに現れる音や、指先の広さ分の熱や、痙攣と瞬きに止まる冷たさがある。雑踏でなく暑さでなく、真夜中の台所の、あのひんやりとした光だ。しかも光は降りそそいでいるのではなく、射している。そして夕闇の日本から、異国の(どこか特定の国ではなく、常に、あくまで「異国」の)早朝までその光は届く。でもそこには誰もいない。歌の作った切れ目しかない。
この人が視る冷たい異世界の日常は、垂直に、すっとナイフで切り込みをいれたようにピランっと、ある。そんなリズム、言葉の繋ぎ方をする。怖くて、美しい歌をこの歌人は作る。
・藍靑の襯衣ひつたりと立ちてゐるわが子の少年に刺靑の香あり
・少年は少年とねむるうす靑き水仙の葉のごとくならびて
・寝臺の端に掛けゐる少年のギプスの脚に月の差しそむ
・湯を浴びる少年ふたり月明に相似の裸身恥ぢにけらしも
葛原の少年は、白く、青い。
ここには載せないが、葛原は自身の、生涯独身であった兄と亡き弟についても、歌を作っていて、そちらもまた幻憬は白と青に染められている。(特に、兄についての歌で私が知る限りの二首は、どちらも本当に素晴らしい…。)
『小公子』の作者バーネットは、愛息ビビアンをモデルにセドリックを書いた。おそらく、私のセドリックへの耐えられなさは、それを作った者の、つまり母親バーネットの健全さに負っている。
葛原妙子の歌に現れる少年達(そしてほとんどの場合それは彼女の「息子」である)は、セドリックにおいては到底感じ得られることのない、痩身の危うさを纏って立っている。それは、換言すればそれを目している母親葛原自身の危うさの表れだ。葛原の歌には、詠まれている少年の姿の内に、まさにそれを視ている自身への冷徹な意識が反響している。
・眼鏡の澄みしづかに深くなるときの男の子よ潔し母にちかづくな
思うに、(あくまでファンタジーの)美少年の暗さに必要なのは、母との癒着よりも母的なものからの疎外だ。一穂の、あの美しい「母」の詩は、もう届かないものについて恋い焦がれる詩である。虐げられずとも少年は母から距離を置かれなければならない。
・上膊より缺けたる聖母みどりごを抱かず星の夜をいただかず
母はもう子どもを抱かない。
*
葛原は洗礼を受けており、キリスト教を題材とした歌も多く残している。
興味深いのは、彼女にとっては少年が青く幻視さるのと同じように、キリストもまた青の人として現れるということだ。
・キリストは靑の夜の人 種を遺さざる靑の変化者
同じく異国の人である仏陀についても彼女は歌を作っているが、そちらを読めば、彼女にとって少年(息子)とキリストの青い線が、狭く、そして酷く象徴されてその間を結ばれているのが、決して偶然でないことがわかる。
・わがまなうらしづかに緋を生めむつむりし褐色の少年悉達の胸衣
悉達とは出家前の釈迦のこと。「藍靑の襯衣」も「靑の夜」もここには見ることができない。
そして、キリストと少年(息子)が彼女の憧憬において同じ青に染められるのなら、聖母マリアに編み込まれるのは一体誰であるのか。答えは明白だ。
私は「危うさ」としか捉えられなかったけれども、塚本邦雄や菱川善夫はその歌論の中で、葛原のカトリシズムと、またキリストと聖母を扱う時のその顛倒についてもかなり深くまで触れようとしている。
……まあ、本人が一番突き抜けていらっしゃるのですけど。
・怖しき母子相姦のまぼろしはきりすとを抱く悲傷(ピエタ)の手より
(六日目)
彼女の歌からネクロフィリアまで見出しちゃった塚本が言ったように「ピエタに母子相姦を視るのは尋常!」とまではさすがに言えないけども、わかりやすく、ミケランジェロのあの一体目の(サン・ピエトロの)ピエタには確かにエロティシズムを感じるよね…。あのマリアは美しすぎる。あの顔は慈悲というより、自分の手の中にやっと取り戻したのだという、深い至福の顔に見える。死んで、初めて抱けた、そういう喜びの顔に見える。
四体目の最後のピエタは、未完成ゆえのあの姿であると言われているけれども、あれ、溶けて、一体化していっているように見えてしまうのだよね。キリストとマリアが。
PR