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シンプリチオ-雑記

ラウの寝起きがmitaidesu!

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2025/11/28 (Fri) -

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ガイ・ベラミイ

2007/11/12 (Mon) - ●●●

夜中2時から5時くらいまでにかけてなんとなくぼんやりする時間が毎日あるのですが、こういう時に死んでも自分は死んだって気付かないんだろうなぁと思った。
頭も身体も動いてないと生きてるのと死んでるのあんまり違いがない。
今は死にたくないって思える毎日生きられてたらそれだけで勝ち組だな。
生に固執できる時というのは生だけでなく死も同じくらい大きく光ってる気がする。
◇→←◇こういう感じ。
ぼんやりとなぁなぁと苦も楽もない状態っていうのは、生も死もどっちも小さい。
・→←・ こういう感じ。
お互いに反発が弱いのですぐに融合して腐廃物をつくります。





「身毒丸」の舞台を観れることになりまして。
その中に「僕をもう一度妊娠して下さい」という台詞があるらしいのですが、あれ?と思った。
永井善三郎の詩にこんなのがあります。

 おっかさん
 ただもう一度だけ
 ぼくをにんしんして下さい

寺山修司が本の中で、この詩にびっくりしたと書いてます。
私は身毒丸よりこっちの寺山の文章を先に読んだので、違和感を持ったみたいです。
ここから身毒丸の台詞に持っていったのだろうなぁと思う。





この詩の紹介から始まる短い文章で、「帰る」ということについて寺山は書いているのですが、なかなか面白く読んだ記憶があります。

彼に言わせれば「帰る」なんていうのは、想像上のこと、らしい。
人間の人生は往ったきりです。同じ所へ帰ろうと思っても、その帰る所が前と同じようにあるわけがない。昨日出た家が今日の家と同じわけがない。と言う。
だから、永井の詩の思想は自分には無かった、とも書いてる。

人間は帰れないが、だからこそ帰るということに憧れを持っているし、帰りたいとみなが思うのではないか、という話。



坂口安吾も『日本文化私観』の中で「帰る」ということについて書いています。以下引用~

~(略)家へ帰る、という時には、いつも変な悲しさと、うしろめたさから逃げることができない。(中略)「帰る」ということは、不思議な魔物だ。「帰ら」なければ、悔いも悲しさもないのである。「帰る」以上、女房も、子供も、母もなくとも、どうしても、悔いと悲しさから逃げることができないのだ。帰るということの中には、必ず、ふりかえる魔物がいる。

更にこんなことも言ってたり。以下引用

~この悔いや悲しさから逃れるためには、要するに、帰らなければいいのである。そうして、いつも、前進すればいい。 


このあとナポレオンのロシア遠征について書いてあったりして面白いのですがまぁ略。 



どちらも昔ちょうど近い時期に読んだせいもあって、この二人の違いは面白いなぁと思ったのです。

それで、何だか寺山の方が、悲しみが深いのかなあと思う。いつも。

悲しみというと語弊があるかもしれないんだけど、「帰る」ということについて安吾よりももっとずっと夢を見ているというか。
寺山は、「帰りたいと思ったことがない」と言うし、帰れるなんて幻想だ、とも言うんだけど、何となく、その諦念に憧憬があるのを感じてしまう。
(のは今も昔も私の勝手な感傷かもしれない)


「帰る」を安吾の言うように、悔いや悲しさの付きまとうものとしてしまいたくなかったのかなぁと思うのです。
それを通り越してしまえ、という。
根本で否定されるような「帰る」を許容したく無かったのかな。どうかな。

ちなみに安吾は結果的に妻帯者になって寺山は生涯独身だったのだけど、これも何かかんか影響はしてるのでしょうかね。


というわけで朝だ!
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