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今月一番切なかったこと暫定一位が、同人誌読んでたら手つったことなんだけど、多分これがそのまま首位を守り抜く気がする。てか再録とかならわかるじゃん、ちょっと重かったりするからさ、でも読んでたの普通に32Pくらいのうっすいのだよ?おかしくない?あの時ばかりは誰か隣にいて欲しかったんだぜ。一人ソファでぷるぷるしてるの寂しかったぜ。
てか携帯でいっぺんに見れたら便利かと思ってミクシにここ移植したら当の携帯では見れませんとか出て全然便利になってない…!意味無い…!しかも前の記事見れなくなるっていう意味無い。
昨日の夜中ミツバ編見て泣いてたら寝る時間逃して大学行かなかったオプスあーリインカネーション角飛てか角都と飛段ってざぶざさんと白を思い出すなぁなんでだろうなぁ全然カプ色違うじゃんとか思ってたらそもそもNARUTOだった同じ作品だった相当キている頭が頭が。あと今日、茨城のことずっと山梨山梨って電話で言ってて、ちげーよって言われたからあ、ごめん栃木だよ栃木とかもうわけわからなかった頭が頭が。ねますね。
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タトゥーしてんのかぁあああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
って多分聞いた人の八割くらいは思ったよね。
中毒になるのは悔しいので一日10回リピートしないうちに動画窓を閉じるように務めている。苦しいよイギイギ。元ヤンであのカワモサなのが人気なのかなーてわからんけど私はそこに萌えるよ眉毛。ていうか杉ちゃん声のマミーが違和感なさすぎて怖い。キャワ!キャワ!
あーホモ読みたい
ホモ読みたい
でも眠いちょー眠い。
翻訳論の講義でクロソウスキーのヴェルギリウス「アエネーイス」のラテン語→仏語翻訳の話が出て面白かった。ラテン語って格変化がガッチリなので語順がかなり自由なんだけども、クロソウスキーが仏語翻訳においてもあえてその言葉の並びの柔軟さを取り入れたという話。
et uera incessu patruit dea.
(→羅uera(形容詞:真の)は dea(女神)にかかって、)
et ve'ritable ,par sa de'marche,se re've'le la de'esse.
(→仏veritable(形容詞:真の)はdeesse(女神)にかかる。)
uera とdeaの間にある言葉を、仏語においても veritableと deesseの間に挟ませることによって、veritable(uera)という形容詞が一体どこにかかるのか文を追いながら探す、というラテン文の浮遊感をそのまま訳文にも持ち込んだという例だった。
(しかしどうでもいいけど、この例文は優秀すぎて笑えた。みっけたのすごい。仏語をそのまま訳すと「真の、その歩みによって、姿を現す、女神が」となるんだけど、もうこれだけで構造自称文みたいになっててw もしかしたらそういうとこからインスピレーション受けたのかもしれないけど。)
現代の翻訳の問題に関しては、果たして「良い翻訳」というものがすなわち、こなれた母国語にすっかり変換されていて違和なく読めるもの(翻訳を翻訳と感じさせないレベルにまで達したもの)であるのか?という疑問があって、その問いに対しての答えの一つに、そうではなく、翻訳というものはもっと「違和をもたせつつ」読ませて良いものなのだ、という立場がある。らしい。異文化の文章を読むという時に、その言語について、自分の言葉との折り合いのつかなさが生まれるのは必然であって、でも別にその「読みにくさ」ごと立ち会っていけばいいではないかーという主旨。なのかな多分。
クロソウスキーを取り上げて論じたベルマンという研究者も同じ意見で、クロソウスキーがフランス語では「異様」でもあったラテン語言葉の並びをあえて取り入れることによって、異国文学のその原文と、加えてそれが書かれている文の背景(構造/雰囲気)までも一緒に透かし出そうとしたことを、凄いねと言っている。
で感想(・e・)
印象に残ったのが、ベルマンが述べたという、「形容詞を孤立させることで、言葉が鳥のようにはばたく」という言葉。こりゃは翻訳関係なく文学についてのちょっとした発見だった!
私たちは文章を→→→→こういう風に読んでいくんだけども、特に正確さ(誰にも彼にも同じように読み取られねばならない、ということ)とは別のところにおそらく本質があるだろう「文学」の場合、この「読む」という視点の流れの内で、どこにどの言葉を置くか、というのは凄く重要なんだと思った。ていうか、しっかりとそのことを意識したことって今までなかったから、愕然とした。今までにガッカリだよもうもう!ホントバカバカ!
例のアエネーイスの一文では、「真の」という言葉を冠された「女神」が文後半に置かれることによって、何か、立ち現れてくるような効果を出してるんだよね。
クロソウスキーが凄いねと言われるのは、その言葉が本当に飾っているところのものの登場、ということと、そしてその登場の文法上における「仕方」にまで、ちゃんと意識を向けたからなんだろうなぁ…と思った。
本当に飾られた先の言葉(例で言うならdea/deesse)の登場に至るまでの間、読み手は、形容を保留させて、浮かせておくことが出来る。この本当に些細な、短時間の言葉の羽ばたきは、でも実は読書体験においてはもの凄く効果が大きいのではないかと思った。上手く使えていればだけど。
作者はもちろん文法に則って文章(物語)を書くんだけれども、同時に、文章法則が持つその曖昧さ(読み取りの分化可能性)までも含めたところで遊ぶことが出来る。意味の重層性をそこに潜ませることができる。明確にできないところで、あえて、そちらを選択していることがある。
そして最終的には著者でなく作品だけが残る、ってのはこういうとこからも来てるんだろか。
テクストだけが残って、読み手はそこに潜るしかない。
とぼんやり思いつつここから先の示唆をもっとくれるであろうデリタのグラマトロジーについてまだ読んでない\(^o^)/のでここまで。
今日こそお風呂入ってから寝る。肌死にすぎ。銀さんがベッドにいれば一晩でペカペカになりそうなのに!ピカピカツルツルになりそうなのに!銀さん!明日drk行こう。
デスクトップ整理してたんらけど、書き途中のメモ多すぎて^▽^散らかってて意味わからん。
とりまちょこっと。
■聖書からカインとアベル
人類初の人殺しのカインだけども、人類初の嘘つきでもあります。
そんでもって、その嘘が「I don't know./私は知りません」であった、というのは面白い。
嘘をついたのはアベルを殺したカインで、相手は神。気になったのが、人類史上初めての嘘が<知っているか・いないか>ということにおいて登場させられた点。テストには出ません。
アベルを殺したカインは、[I don't know. Am I my brother's keeper?/知りません。私は弟の番人でしょうか?]って答えるんだけど、当の神の質問は、[Do you know where your brother Abel is?/おまえの弟アベルはどこへ行ったか知っているか?]ではなくて、[Where is your brother Abel?/おまえの弟アベルはどこへ行った?]だった。
例えばアベルを殺したことを正直に言わず、神の質問に対して嘘をつきながら答えるのなら、カインは「アベルは~へ行った」と言うことも出来た。でもカインは「知りません」と答える。
知らないのに知ってる、っていう嘘よりも、知ってるのに知らない、っていう嘘が罪と絡めて世界では先に出てきた。そして何より、人間と知について、認識についての発言において、初めて嘘が可能になったということ、これはとても興味深い。
*
で、久々に自分で書いた↑読んで思ったんだけど「アベルがどこへ行ったか知らない」というのはカインにとってはあながち嘘でもないんだよね。(つまりこの妄想メモ自体が無意味な産物へと帰します。アッー!!)
人間が死んだらどこへ行くのか?カインは知っていただろうか→多分知らなかった→「どこへ行ったの?」って聞かれても答えられない→知りません。
果たしてこれは嘘か。例の林檎食べた後のアダムの返答を私は嘘だとは思えないので、カインのこの返答も嘘だとは言えなくなる。
ううん残念…とても残念……。人類初の嘘が認識について行われていたなんて、哲学科的にはとても美味しいではないかと一人悦っていたのに。
でももったいない精神で載せておきました。デスクトップが少し綺麗になりました。
しかし、だとすると、例えば聖書なら、最初に嘘が出てくるのはどこなんだろう?気になる。
メモ続き↓
■カインアベル話にがんばって垣間見るホモと三角関係
そもそもカインがアベルを殺しちゃうほど怒ったのは、神がカインの供物よりもアベルの供物を喜んだからなんだけど、そのこと自体とても意味深(ていうか聖書は全部意味深なんですけども)。
供物に対する神の態度に怒ったカインについて、「カインはひどく怒り、顔を伏せた」(これかわいいよね)って表現がされてるんだけど、顔を相手から隠すというのは羞恥心の基本的な表現でもある。カインの怒りは、実は羞恥(恋愛)と共にあったんじゃないか?と考えてみる。
愛情の競い合いがここで初めて描かれている。
Am I my brother's keeper?というカインの言葉は、なんだか嫉妬してるみたいだ。アベルはあなたのものでしょう?って神に皮肉っているみたいに思える。じゃあカインは誰が好きで誰に嫉妬してたのか?って話になるとこれがよくわからない。
神とカインとアベルを三角関係で考えようとしてみたら、二つパターンが出来た。
①カイン→神→アベル→カイン
わかりやすい方。
アベルからカインに矢印出てるのは、供物問題のあとに「野に行こう」ってカインに誘われたアベルがそのままホイホイ兄ちゃんについてっちゃうからです。これ兄のこと相当好きじゃね?みたいな超超超都合の良い妄想。
②カイン←神←アベル←カイン
で実はこの話は①の矢印逆でも読み取れる。どっちかっていうと私こっち派。
カインが本当は、自分がより神に愛されなかったことを怒った(アベルに嫉妬した)のではなくて、神に愛された弟というものが嫌で(神に嫉妬して)アベルを殺したのだとしたら、という妄想:アベル←カイン
アベルは神のためにわざわざ最上の供物を選んで持ってくる(カインには「何かから選んで」という文章は付されない):神←アベル
で、問題の「カイン←神」なんだけど、これはアベルを殺したカインに対しての神の態度から持ってきた。
……………以下引用……………
「あなたは、いったいなんということをしたのか。聞け。あなたの弟の血が、その土地からわたしに叫んでいる。今や、あなたはその土地にのろわれている。その土地は口を開いてあなたの手から、あなたの弟の血を受けた。それで、あなたがその土地を耕しても、土地はもはや、あなたのためにその力を生じない。あなたは地上をさまよい歩くさすらい人となるのだ。」
カインは主に申し上げた。
「私の咎は、大きすぎて、にないきれません。ああ、あなたはきょう私をこの土地から追い出されたので、私はあなたの御顔から隱れ、地上をさまよい歩くさすらい人とならなければなりません。それで、私に出會う者はだれでも、私を殺すでしょう。」
主は彼に仰せられた。
「それだから、だれでもカインを殺す者は、七倍の復讐を受ける。」
そこで主は、彼に出會う者が、だれも彼を殺すことのないように、カインに一つのしるしを下さった。
それで、カインは、主の前から去って、エデンの東、ノデの地に住みついた。
……………引用以上……………
カインは一応罰も受けてるが、同時に神から守られてもいるように見える。人殺しの彼は誰からも殺されることがない。
「一つのしるし」というのもやっぱり何かエロいよ。誰にでもわかるってことはこれは常にカインが身につけているものに付けられたと考えるのが普通だと思うんだけど、そうなると一番手っ取り早くて確実なのは体かな?と思うの(お天気脳バンザイ)。神からのキスマークのようなものをカインはもらったのですとかでいいんじゃないかなどうかな。日本で言うなら、仏との結縁みたいなそのような。
(てかそもそも血が染みこんだ土地が作物を作らなくなるってなんか、男同士でエッチしても子ども出来ないってのの隠喩のような気がする。不産の土地になるってそういうことじゃないか。カインがどうやってアベルを殺したかは書かれていないので、その殺し方をどう想像するかは読み手の自由なのです。よって私は犯し殺しを提案する。)
つまり神さまはカインにアベルを殺させることでカインを手に入れたのです。嫉妬心を使って、カインに決着を付けさせたのです。供物に喜んだのも演技だったのです。
カインとアベルの話は、聖書で初めての人殺し話であると同時に同性愛と兄弟愛と三角関係の話でもありました。
はーーーースッキリ。
書き捨て山。
なつかしーー!
http://www.youtube.com/watch?v=JgBaB_kHG5g
http://www.youtube.com/watch?v=ENB5E6oR7cA
結局お気に入りはこの二つ…落日は泣けるよね
銀魂はなんか帰る場所ってほどではないけどたまに無性に見たくなるよねなんでですかねやっぱり銀さんのせいかななんか落ち着くのそして銀さんいなくてまた泣きたくなるうぇーうぇーあ~~~銀さんかっこいい…なんなのあの人なんなの。あーーなんなのーーーもおーーーやだやだやだ!三次元がやだやだやだ意味がない意味がない痩せても化粧品買っても服買っても髪切っても意味がない意味がない自己満で意味がない銀さんは見てくれない。でもワンピは欲しい銀さんの前でくるくる回ってそんで鼻くそほじってハイハイって言って欲しい。日焼け止め一生懸命塗っても意味がない今日塗ってて私誰のためにこれ必死に塗ってるんだろうと思って泣きたくなった若干脚色ありですけどあー銀さんが好きだよおって話だよお
好きだよおおおお
なんてかね、アレルヤとか米とかは多分ホモの攻めとして好きな分が大きいのね。足りない攻めでね。銀さんも足りない攻めなんだけど、でも基本ドリ分がホモに勝つのね。とおしろうより私が勝つのね脳内でね。
銀さんがアルビノ種って言ってるひとがこの前いてそういやそうだと今更気付いた。何年目?!カヲルくんと同じなんだねー。あんまりそんな感じしなかった銀さん汗とか超かきそうじゃん臭そうじゃん。ややおっさん入ってきたアルビノって稀少じゃない?
喘ぎすぎなアレルヤってもえる
攻めなのに喘ぎまくります
ろっくんドン引き
服ほしーーーーーーーーーーーーーー
春にして君をおもうって映画だったのね
小学生の頃に覚えた和歌漢詩現代詩は忘れなかったけど高校時代のはほとんど忘れてる。でも例外で「風と木の詩」の冒頭モノローグだけは忘れられない。
今日ひさびさに目にする機会があって、読んでたら涙出た。
あの文章のリズムは忘れがたい。覚えてる!という感動もあった…一気に風木が体を巡ってゆきました。
「風木」は冒頭と同じモノローグで締められる最後のページの絵がとても好きだ。木々が並び囲んだ道の先、背景の遠くにある学舎が暖かくて切ないの。ベタでほとんど見えないのに。ジルベールと風の向こうにある場所は始まりの場所で、物語の最後で最後で「ありし日」に戻るのです。囚われたセルジュの心なのです。
私はオーギュがとても好きなんだけど、オーギュが死んだジルをどうしたか、ということって番外編で語られたことだったのね。本編とごっちゃになってた。
私にとっては、セルジュは遠い人で理解の及ばない人なんだけど(きっとスザクもそうである)、オーギュは「私とは違う」のにわかるような気がする。ていうかわかりたいという憧れなのかもしれない。セルジュは憧れがないからわかりたいと思わないのかもしれない。
ついでにオーギュのことを肯定はせずとも理解してくれているロスマリネとジュールのことも好きだ…。セルジュとジルが影でない、光の方の住人だったなら、この二人は半分は影の世界の子どもたちなんだなー。
オーギュについて考える時いつも必然的にBANANA FISHのゴルツィネのことも考えてしまう。
昔は彼らはとても似ていると思っていたんだけど、なんだか今は違う気がする。
ゴルツィネはアッシュを抱きながら、最終的には「抱いて」欲しかった人なんじゃないかなぁと思う。ゴルツィネは本当に深いところの願望としては多分アッシュに自分を越えて欲しかったんだけど、オーギュはそうじゃない。オーギュはひたすらジルを抱くけどそしてそれで全てだけど、なんで全てかって言うと、そもそもジルの方が始めからオーギュより「上」だったからだ。むしろオーギュは抱くことでしかジルに対して自らを発揮することができない。オーギュとジルには性がどうしようもなく必要で、関係性の内の唯一といっていい要になってしまっている。だから逆にセクシュアルな感じを受けない。それが真っ当に明らかにされすぎているからだ。隠されているからこそ、ゴルツィネのアッシュへの愛やアッシュの服従と反抗は、もの凄いエロさを醸し出す。
きっと精神的に見ればアッシュは攻めで、禿げで太って歳取ったゴルツィネは受けなのです。ついでに英二相手になると、(作中のさんざの描写も押しのけてですが)やっぱりアッシュは抱かれる方になるのだと思う。最後の英二の手紙が正解。
男男におけるエロティシズムはやっぱり逆転にあるのかぬぁ~。落差と言ってもいい。英二の前で転落するアッシュも、アッシュの前で転落するゴルツィネも、なんとエロエロしいことか。何もしてないのに!何もしてないのに!
そしてBANANA FISHの最終回読んでまた泣くという。なんでそこで見上げるの…なんでそこで笑うの…アッシューーーーアッッシュウウウーーーーーーーーーーーーーーーーーー !!!!!!そして「光の庭」のシンに気付いてしまった。どうしよう。前は気付かなかった…!この子はっっっ。滾る。思い出には勝てないし、あの人にはなれない!好きが先なのかなりたいのが先なのかわかっているの。萌える。
バリー・リンドンのサントラの中古価格に全かすぱが泣いた。
アレルヤとカザフスタンの妄想が止まらない。
買い物いきちょー。
ちょー。
写真残すか残さないかって今の価値観だけで判断しない方がいいのかもなん。
あとで見たいと思っても見れないからとりあえず撮っておけってなるかも。
自分の写真ね。
でも撮らないけど。
でも撮っておくべきかも。
昔ママンが若いうちに自分のヌード写真撮っとけとか変なこと言ってたけどあれはあながち妄言でもなかったのかもしれない。いやいやどうだろう。いやいや。
グロスは固めがすき。
ジェラートピケとスナイデルやっぱり可愛すぎる…ロングワンピ今年は絶対買う。
でもインフル流行は予測できんかったろうね…あと中央大の方も…おお。ニュース盛り沢山。
ライたんの最初の決め台詞候補に「乱れ撃つぜ!」というのがあったらしくてとりあえずその失笑を禁じ得ないかっこ悪さについて色々述べるのは置いといても流れ弾くらい当たらねーかなーーみたいなライたん乱れ撃つってすごく似合うようんリア充気質よく出てるむしろ乱れ撃たれたい、流れ弾、流れ弾プリーズ
パヤオ作品で「ナウシカ」が一番好きなのは、心強いのは、ナウシカがずっと姫的であり続けたからかもしれないと思う。アスベルもユパさまもいらない永遠のお姫さまは、憧憬を約束してくれます。
あえてものっそい感傷的に解釈するなら、ラピュタ冒頭のシータが飛行石と一緒に落ちて来るシーンで私が泣くのは、あの落下が彼女の姫的立場からの脱却を象徴してるからだ。それがシータにとって幸か不幸かは問題でなく、私にとって不幸なのだ。前に、シータが作中で演じる三つの役割(魔女・少女・聖女)について書いたけど、燃える城で白いワンピース(聖女)を着てロボット兵の腕の中にいる時の絵が好きなのは、その映像の素晴らしさを抜きにして考えるなら、それがシータに見ることが出来た最後の憧れる姿だったからだ。ロボット兵(守人)の腕からパズー(少年)の手に渡った時に、お姫さまはまたお姫さまでなくなってしまったのでした。
*
またメモ帳からみっけたの。さすがに3年経つと忘れてんな。
①
「必要とする思考」の余剰。
母親のいない青年の不幸はとるに足らないが、
いない母親を必要とする青年の不幸は根深いものがある。
ううーーーーーーーーん。「少年」じゃなく「青年」なところがミソか。王子思い出す。
寺山修治かららしいけど元本がわからない…2006年のかすぱよ、いい加減にせよ。
②
「数の増大は陶酔につながる」
ボードレール。出典はMATAわかry。何か予見的。
③
「私には同じことだ、
どこから始めようと。
またふたたびそこへ戻り行くであろう。」
パルメニデスたん再び。多分これも転生か?萌える。
*
ギアス見てる。やっぱ面白い。
しかしなぜか毎回継続視聴が出来ないので→忘れちゃったな→記憶取り戻そう→止まってる話の数話前から見直す→というのを繰り返しており、前半の話のリピート回数がハンパないギアス不思議ギアス。10話前だとそれぞれ多分3回以上観ている。いろいろがんばりたい…自分。
ロイドさんとセシルさん大好き。
あと藤堂×ギルフォードとかどうですかね?ありますか?ありそう。あってくれ。
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